「監督さん」と呼んでいた、私の水泳人生の最初の師匠、
梶谷節夫氏が亡くなったとの報告を受けた。
年齢的にはウチの親父より若いと記憶していたが、
数年前からご病気だったとは聞いていたので、
私にもそれ相応の覚悟はあった。
しかし、それでも悲しいものは悲しい。
気分はネガティヴモードだ。
監督さんはいつも、ナンバー「4・34」の軽自動車でプールにやってきて、
赤い水着を着て、竹の棒を持って、
「なにやっちょぉかぁ!」とプールサイドでだみ声で叫んでいた。
私が生まれて初めて、9歳の6月に島根大学プール(長水路、水温約20度)で50mを完泳したとき、
監督さんは竹の棒で、途中で壁につかまろうとした私の腕を何度も払った。
そのおかげで、私は50mを完泳できたのである。
数年前に亡くなられた奥様も、
監督さんが自宅を寮に改装されて数人の選手をそこに住まわせていたときに、
食事の世話をされていた。
一家総出で、水泳界のために手弁当で頑張って来られた方々であった。
地域には、そんな愛すべき「水泳野郎」が、沢山いた。
我々はただ単に、その残骸なのかもしれない。
今のように、インターネットだの、パソコンだのがない時代。
当時の水泳関係者は、みんなアナログな中、
強い選手を作りたい一心で必死だった。
今もって、それが何故か私には分からない。
ただ、栄光のためでなく、
ただ、名誉のためでもなく、
多分、「負けたくない」という否定語の果てを見つけるべく、
頑張っていたようにも見受けられる。
この時代になって、
いまだにいろんな問題がアナログなやり方で進んでいく状況に疑問に思いつつ、
心のどこかで「仕方ないさ」の思いが、ひょこっと顔を出してしまうのは、
多分、そんな育成過程で育んだ「我慢」の表れなのだろう。
1990年アジア大会の出発の前。
東京高輪プリンスホテルでバスの出発を待つ私に、
喫茶店で激励してくれたのは、この監督さんであった。
島根県水連から授かった餞別を私に渡すと、
色々な話をしてくれた。
「戦いに行く前には、全てのことをスッキリさせた上で望め。
心残りをつくるな。覚悟を決めろ」
だみ声で監督さんは私にそう言ったのを、今でも覚えている。
監督さんだったら、この水着騒動をどう見たのだろうか?
「全てスッキリさせろ」
この言葉こそ、全て物語っているかのように思えるのだが・・・。
後年、田舎の連盟だけに様々な揉め事もあったようで、
最高の晩年とはいかなかったとも耳にするが、
好きな水泳に一心に取り組まれたことは確かだったようだ。
そしてその残骸は、今でも水泳界の中心のちょっと端っこの方で、
こうやって生きている。
惜しむらくは、1990年アジア大会と同じ、
島根のほど近い場所で行われる五輪を、その目で見届けて欲しかったのだが、
天命とあっては仕方がない。
現在の騒動も含めて、天空からその行く末を肴に、
好きだったタバコをふかして一杯やっててもらいたい。
献杯。
