2008年05月11日
初単著
の著書が、来月出版目標で進められている。
今まで、執筆協力やら訳本やらはいくつか経験があったものの、
単著は初なので、いくら技術本とは言え緊張モノである。
んで、今日はその撮影を、
本学文理学部の耐震基準に見合った新天井を兼ね備えたプールにて、
朝っぱらから行った。
モデルは、ウチのSAの4年生の二人。
前列右が白川クン。
左がこのコーナー常連の萌子鬼沢。
長時間の撮影にもメゲず、
普段以上のパフォーマンスを見せてくれた。
BBMのスタッフの皆様も、お疲れ様でした。
でも多分、田村さんと桜間(裕)さんは、これからが大変なんだ・・・(微笑)。
初心者から、選手、コーチまで、幅広い水泳人に「ためになる本」を・・・と思い、
これまで私たちが取得したデータも交えながら、
速く泳ぐための、
あるいはそういう選手たちのパフォーマンスを見るために必要な情報を、
凝縮させた本である。
知的に水泳と接するためのバイブルとして、
是非ご一読いただきたい。
ちなみに、本の題名は・・・
「レーザーレーサーで泳ごう!」
・・・なわけない(笑)。
んだもんで、まだ決まっていない(爆)。
時代
監督さんのお見送りに、授業で行けなかった私は、
今日、日帰りでお線香を上げに実家に赴いた。
監督さんの遺影は、今にも「よぉ来てごしたわいのぉ」とでも言わんかの如く、
元気な頃のお姿そのものだった。
ウチの実家の両親とご遺族との会話の中にも、昔の苦労話が数多く出た。
先日の日本選手権の時には既に意識が遠のかれていたようだったが、
去年の国体くらいまでは、私が解説で出ると、
入院先でもテレビをつけて下さったという。
私がまだ指導者になりたてで、
解説もデビュー仕立てだった頃にお会いしたとき、
事務所に招かれお茶をいただきながら、
「わしゃぁ、お前にスマンことしたと思うてなぁ」
と切り出された。
「お前がよくテレビで言っちょったように、
『小さい頃から4泳法をきちんと練習させる』方が、
ええ選手ができるけんなぁ。
あげに(そういう風に)言われれば、今の選手は確かにそうだがな。
わしゃ、お前にはクロールしかさせんかったけん、
今思えば悪かったのぉ」
あの時代に、
実家の農作業を指導のためにサボって怒られたりしながらも(笑)、
決して監督さん自身が裕福になったわけでもなく、
逆にいい選手を多数輩出したことで、人からは恨みつらみも受けながら、
監督さんは長い間頑張ってこられた。
今にして、何もなかった時代に手探りで、
日本水泳連盟が財団法人化するよりずっと前に、
島根県水連を財団法人化した経緯だとか、
貴重な話も今日はたくさん聞けた。
翻って、今、我々の時代は、
これだけ社会的な変化があって、
情報も早く、練習環境も整ってて、
当時からどのくらい変わったかと問われれば、
確かに、日本選手権などの大会も華やかにはなってきたものの、
それで?・・・と思うと、悲しくなる自分がいるのも否定できない。
日本の水泳界では、未だに選手への指導はボランティアが多数を占め、
一部スポーツクラブ業界だけが収益を上げ(それもかなり苦労した挙句)、
地域では競技人口が激減している。
監督さんが頑張ってきた時代と比べて、
確かに五輪や国際大会では、成果を挙げてきているものの、
業界全体を見て「どうなの?」と思えることの方が多いように感じるのは気のせいか?
もちろん、私にも関係者として責任はある。
しかし、システムそのものが現代の社会に見合っているのかどうか、
今一度再検討するには、ちいとばかし遅いくらいの時を迎えているのかもしれない。
そんなことを、帰りの出雲空港で、
中学・高校時代に熱狂的に毎日飲んだ「中酪コーヒー牛乳」を飲みつつ、
思い浮かべるのであった。
でも、多分明日も、
今日となんら変わらない日がやってくるのである。
2008年05月07日
監督さん
「監督さん」と呼んでいた、私の水泳人生の最初の師匠、
梶谷節夫氏が亡くなったとの報告を受けた。
年齢的にはウチの親父より若いと記憶していたが、
数年前からご病気だったとは聞いていたので、
私にもそれ相応の覚悟はあった。
しかし、それでも悲しいものは悲しい。
気分はネガティヴモードだ。
監督さんはいつも、ナンバー「4・34」の軽自動車でプールにやってきて、
赤い水着を着て、竹の棒を持って、
「なにやっちょぉかぁ!」とプールサイドでだみ声で叫んでいた。
私が生まれて初めて、9歳の6月に島根大学プール(長水路、水温約20度)で50mを完泳したとき、
監督さんは竹の棒で、途中で壁につかまろうとした私の腕を何度も払った。
そのおかげで、私は50mを完泳できたのである。
数年前に亡くなられた奥様も、
監督さんが自宅を寮に改装されて数人の選手をそこに住まわせていたときに、
食事の世話をされていた。
一家総出で、水泳界のために手弁当で頑張って来られた方々であった。
地域には、そんな愛すべき「水泳野郎」が、沢山いた。
我々はただ単に、その残骸なのかもしれない。
今のように、インターネットだの、パソコンだのがない時代。
当時の水泳関係者は、みんなアナログな中、
強い選手を作りたい一心で必死だった。
今もって、それが何故か私には分からない。
ただ、栄光のためでなく、
ただ、名誉のためでもなく、
多分、「負けたくない」という否定語の果てを見つけるべく、
頑張っていたようにも見受けられる。
この時代になって、
いまだにいろんな問題がアナログなやり方で進んでいく状況に疑問に思いつつ、
心のどこかで「仕方ないさ」の思いが、ひょこっと顔を出してしまうのは、
多分、そんな育成過程で育んだ「我慢」の表れなのだろう。
1990年アジア大会の出発の前。
東京高輪プリンスホテルでバスの出発を待つ私に、
喫茶店で激励してくれたのは、この監督さんであった。
島根県水連から授かった餞別を私に渡すと、
色々な話をしてくれた。
「戦いに行く前には、全てのことをスッキリさせた上で望め。
心残りをつくるな。覚悟を決めろ」
だみ声で監督さんは私にそう言ったのを、今でも覚えている。
監督さんだったら、この水着騒動をどう見たのだろうか?
「全てスッキリさせろ」
この言葉こそ、全て物語っているかのように思えるのだが・・・。
後年、田舎の連盟だけに様々な揉め事もあったようで、
最高の晩年とはいかなかったとも耳にするが、
好きな水泳に一心に取り組まれたことは確かだったようだ。
そしてその残骸は、今でも水泳界の中心のちょっと端っこの方で、
こうやって生きている。
惜しむらくは、1990年アジア大会と同じ、
島根のほど近い場所で行われる五輪を、その目で見届けて欲しかったのだが、
天命とあっては仕方がない。
現在の騒動も含めて、天空からその行く末を肴に、
好きだったタバコをふかして一杯やっててもらいたい。
献杯。
2008年05月03日
卍固め

2008年05月02日
ドロップキック
2008年05月01日
門限
危うく締め出されるところだった(汗)。
あぁ、こんな生活、学生時代以来だ。2008年04月30日
サッカーらしきもの
ソーレ日大、いっちにぃ!
サッカーらしきもの(サッカーに似た球技っぽい)が始まった。練習グループ対抗らしい。 ヘッドシザース

2008年04月28日
北の国から2008

今度は誰かが10mに上がったぞ。
おっ、五輪選手と打ち合わせ中? 







